NHKラジオ講座やっています

先日、書店に行ったんですが、ふとNHKテキストのコーナーを見たら「ステップアップ中国語」で大森喜久恵先生の「通訳式トレーニングでレベルアップ!」をやっているではないですか!

こんな講座をやってるとは、全然知りませんでした。たまにはNHKをチェックしないといけませんね。

ということで、遅ればせながら始めました。

放送はもう半分以上終わっているので、テキストとダウンロード版の音声を購入しました。テキストには、放送にはない+αのトレーニングがあり、音声もサイトから聴くことができるので、結構ボリュームあります。

このところ耳と口の衰えを感じていたので、グッドタイミング。シャドウイングやリピーティングも、レコーダーで自分の声を聴いてみるのも久しぶりなので、楽しいです。

ところで…第1課で「午後1時」“下午一点”の一を四声で言っていて、テキストのピンインも四声になってるんだけど……これ、いいのかなあ? 私はとても気持ち悪いんですが。

1978年、冬。

1978年、冬。
チャン・トンファン (出演), リー・チエ (出演), シェン・チアニー (出演), リー・チーシアン (監督)


美しい景色、重苦しい空気、無口で無表情な人たち。悲しい映画だった。

1978年は不思議な年だ。自由で開かれた中国に向かって歩み出した年だけれど、まだ文革の圧迫の方が強く、見いだせるはずの希望がなかなか見えてこない。そんな感じがした。

本当に1978年がこんな空気だったとしたら、その後の30年は奇跡以外の何ものでもない、確かに。

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巣ごもり映画は、やっぱり迫力がないですね。プロジェクターとスクリーンを買いたいです。

ひとまず安堵の新年です

新年初の投稿ですね。今年もよろしくお願いします。

昨年暮れ、後輩から「お歳暮」としてシクラメンが送られてきて、嬉しくて育て方を勉強したり、せっせと世話をしたりして新年を過ごしていました。

仕事はコロナ禍で激減。1月前半は本当にまったく依頼がなく、私はこのまま業界からフェイドアウトかな~、覚悟を決めた方がいいのかな~とシクラメンに語りかける日々。

でも中旬になって定期的な仕事が入り始めました。今週になると急に依頼が増え、大小合わせて2日で5件も。まだ打診段階のものもありますが、かなりのボリュームの案件もあって、嬉しい限りです。

昨年中は、中国と台湾の会社からの仕事がかなりの部分を占めていて、向こうは日本よりコロナの影響が少ないのかななどと思っていましたが、今回は日本の会社からのものがほとんど。

だいたい秋から年度末は依頼が多いので、コロナ禍とはいえ、さすがに年が明けたらいつもの繁忙期がやってきたのかもしれません。

とりあえず、業界からフェイドアウトの心配はなさそうで、ほっとしました。

さ、仕事仕事。

廃品生活

著者 : 胡嘉明,张劼颖
生活.读书.新知三联书店
発売日 : 2020-01
香港中文大学の女性研究者2人による、北京冷水村での社会学フィールドワークの成果。

冷水村は大都市と農村との境界。北京中心部のように家賃や物価が高くなく、管理も厳しくないために、よそから来た人にとっては暮らしやすく、同時に大都市北京での大量消費によって生まれるゴミや廃品によって経済を成り立たせることができる。まさにこの場所だからこそ、なのだ。
ゴミ・廃品処理は、本来ならば行政サービスのはずだが、そのサービスネットワークが完全に機能しているわけではないのだろう。だから彼らの存在する可能性と必要性が生まれる。ここで廃品を扱って暮らしている人は、農村部から大都市に来て働くいわゆる「農民工」とは違うという。「農民工」は企業によって管理されているが、冷水村の人々はそこには入らない。こうした通常の経済サイクルや行政の管理から外れる存在を「散工」と名付けている研究者がいるそうだ。
彼らには二重の葛藤がある。よそ者であることの葛藤。管理された農民工には、都市人口と同等の(あるいは近い)サービスが受けられるよう、門戸が開かれて始めているが、彼らはその範疇に入らない。そして、ゴミという汚れた存在に関わることの葛藤。この本では、彼らがどのようにしてこの仕事を始め、どう暮らし、どうやってこの葛藤を乗り越えて「尊厳」を守っているのか、を探っている。

さまざまな人が描かれているが、多くの人に共通していることがいくつかあった。
故郷に対する気持ちと、今生きている北京に対する気持ち。ゴミを処理してお金を貯め、故郷に誰も住まない家を建てる。これが「尊厳」だとしたら、あまりに悲しくないか。
子どもの養育と教育。子どもを故郷に置いておくか、手元に引き取るか。故郷の学校に行かせるか、北京の学校に行かせるか。北京で優秀な成績を取り、重点中学に入学させることができたものの、北京市民の子と差が開き、故郷の高校に転校して大学受験することになった子のエピソードは苦かった。
「自由」。北京の工場へ出稼ぎに来て、管理されて働くのに嫌気がさし、廃品処理に転じた人たち。実際には毎日朝から晩まで廃品を回収しているのだが、好きなときに行って好きなときに帰っていい、行きたくなければ行かなくていいのが何よりいいと言う。この気持ちはわかる。フリーランスは自分で自分の働き方を決められることが最大の魅力だ。

これまでの中国研究で見たことのなかった視点だが、結局描かれたのは都市と農村を分ける制度のひずみ。この本の限界というより、中国はどこから入っていっても、その問題にぶつかるのだということを証明したのだと思う。

ポストエディットについて考えてみた

中国語翻訳で需要が出るのはまだまだ先…と思っていたポストエディット。しかしコロナが後押ししたのか、実際に打診があったのです。

対応はそのときになったら考えようと思っていたのですが、思いのほか早く「そのとき」が来てしまった感じ。数日かけて考えてみました。

直観的にポストエディットはやりたくありません。しかし、通常の翻訳は減っています。今後、ポストエディットはどんどん増えていくでしょう。対応せざるを得ないかもしれません。

チェック作業はやっていますが、今は日本語→中国語のチェックだけです。訳文は基本的にちゃんとしていて、その中で変換ミスとか、数字の転記ミスとか、原文の理解の勘違いといったごく数パーセントのずれを見つけることが求められているので、仕事の質がまったく違うと思います。

ポストエディットを改めて考えてみる必要がありそうですが、これって、機械が訳すから、おかしいところだけ直して、その分安くして、ということですよね。なんとなく筋が通っているような気はします。

でも、ポストエディターは原文を読まなくていいわけじゃありません。訳文だけ見て直すのなら、翻訳者でなくていいわけですから。

原文を読み、文字にしないにせよ、いったんは訳してみて、機械が訳したものとの違いを探して、直していくのです。これは、自分で訳すより労力がかかっていると言えなくないでしょうか。

もう1つの理由。不完全な訳文を延々と読み続けなければならないのが苦痛です。そういう訳文に染まらないように気を張り、神経をとがらせてやり続けるのはさぞ大変でしょうね。だんだん気を抜くようになって、不完全な訳文に慣れてきて、「いい訳文」がわからなくなってしまいそうです。

実際に機械が訳したものがどれくらい「使える」のか、現物を見てみないとわからない部分もありますが、やはり納得して引き受けることはできそうにありません。

そんなことを言っていたら、いつかはお払い箱になってしまうかも、とも思うが、機械でない翻訳を求めているクライアントも絶対いるに違いない、とも思います。