Microsoft 365の更新時期になりました

ソフトもサブスクリプションが増えてきましたが、MicrosoftとAdobeはほんとに高いですね。Adobeのソフトは自分の趣味で使っているだけなので、かなり前のバージョンを使い倒していますが、Officeはそうはいきません。

翻訳会社によってはバージョン○○以降のMicrosoft純正版必須と要求される場合があるし、そういう要求がなくても、代替ソフトは細かい部分の互換性が気になる(特にパワーポイント)ので、使うのは躊躇します。

余計な心配をせずに翻訳に集中できるので、不満もあるんですが、必要経費と思ってMicrosoft 365 Personalを使っています。

更新時期は毎年12月下旬。特に決めているわけではなく、なんとなくそうなりました。忘れないようにカレンダーに書いてあるので、もうすぐだなとは思っていましたが、ちゃんとメールでリマインドがきました。もうそろそろ買っておいてもいいでしょう。

Microsoftのサイトで自動引き落としされると12,984円ですが、Amazonで買うと11,581円です。手間もたいしてかからないし、少しでも安い方がいいのでAmazonでダウンロードコードを購入しています。

Amazonに行くと、Microsoftのキャッシュバックキャンペーン中ということがわかりました。12月4日~24日に購入し、1月31日までに郵送で申請すると3,000円返金されます。やった~!

さらにカートに行くと、なぜか「プロモーション」として1,158円割引になっていて、最終的に7,423円で更新できました!

こういうキャンペーンがあるときに買うといい、とは知っていましたが、実際に恩恵にあずかったことはあまりないです。偶然だけど、12月というのはキャンペーンがよくあるタイミングなのかもしれません。

来年も更新時期にキャンペーンがないか、気にしておこうと思います。

思いがけない通訳の依頼がありました が…

通訳の仕事をしなくなって1年以上になりますが、先日、立て続けに通訳の打診がありました。

通訳の業務だけを承けていたエージェントには「もうやりません」とお伝えしていたのですが(コロナ禍で今後の見通しがつかない状況だったせいか、強く引き留められることもなく)、これまで通訳をやったことのないエージェントには言う必要もないので、特に知らせていませんでした。

なのに、このタイミングで。不思議なものですねえ~

オファーのあった会社のうち、1社には通訳はやめたことを伝え、もう1社は知人を紹介しました。紹介した方の案件は結局、コロナで案件自体が中止になったそうです。

首都圏に転居した後、翻訳と違って通訳の場合、地元のエージェントを1から開拓しなければならないことがわかりましたが、もうそんなエネルギーはありませんでした。

そもそも転居する前の札幌でも仕事が多かったわけではなく、力をキープするための日々のトレーニングが苦しくなっていました。年に数日しかない通訳案件のために、リスニング、シャドウイング、リプロダクションなどを1人でやり続けるというのはキツイです。

幸い、翻訳は順調に仕事をいただけるようになっていて、「重要なクライアントなので、ぜひやってもらいたい」と名指しされることも増えていたので、翻訳に絞ってやろうと決心がつきました。

今回、偶然オファーをもらった後、ふと気づいたのですが「依頼があるんなら、通訳やめなきゃよかった」とは思わなかったんです。

通訳はとても好きな仕事でしたし、恩師にも「向いている」と言っていただいたし、性格的にも合っていたと思うのですが、縁がなかったのでしょう。

今回の思いがけないオファーのおかげで、自分の立ち位置というか、仕事に対する考え方を再確認できたと言えるかもしれませんね。

 

自粛が続いてのんびりが極まってきました

しばらく更新が滞っていました。

仕事はまだじわじわと減っていますが、定期的な案件があるのでゼロにはなっていません。1つ1つは少量なのですが、5件あって完全休業とはならないのでありがたいです。

もう1つの活動(武術太極拳)も完全ストップだったのですが、考えられる感染対策をきちんとして、活動を再開しようという動きが10月から少しずつ出てきました。

それでも不安があるから参加しないという人もいれば、「家族に反対されるから」という理由で参加しない人もかなりいます。しかたがないですね。

再開された活動は、いつもより人数は少ないですが、火は消えていないという感じです。

それから、来年の行事に向けての準備も始まりました。やれるかどうかはそのときにならなければわかりませんが、かといって準備をしておかないわけにはいきません。

そんなわけで、完全引きこもりの状態から抜け出しつつあります。しばらく何もしていなかったので、ちょっとの作業でもすごく大変に感じて、日がたつのが早いです。

自粛が始まった頃は「このチャンスに勉強しよう」などと思いましたが、漢文を復習して、通訳翻訳フォーラム(オンライン)に参加したくらい。すっかりのんびりに慣れてしまって建設的なことはあまりできていません。

時間ができたらあれもやろう、これもやろうと思っていたのに、この体たらく。今となっては、何を勉強しようと思っていたのかさえ思い出せない…。

まだ焦る気持ちになっていないのだから、のんびりしててもいいかなと思い、無理はしません。

そのうち思いついたら何か始めるかも。でも、何もやらないうちに、コロナ禍が収束してバタバタになってしまうかも。

どちらもいいことだと思います(ゆるゆるだ)。

本日のお散歩写真。

神より大きな存在について考えさせられた芝居と本

先日、知人に招待されて、Theatre Company shelfの『Rintrik-あるいは射抜かれた心臓』を見ました。

作品について私が持っていた予備知識は、インドネシアの小説を舞台化したものだということくらい。真っさらな状態で見たと言えるでしょう。

感染症に配慮して人数を制限し、換気に注意しながら行われた舞台。無機質な舞台装置、特別な衣装はなく、現代のごく普通の服装は、かえって芝居の意味を純粋に考えさせるものでした。

舞台は緊張感と迫力に満ち、素晴らしかった。難解ではありましたが、結局のところ芸術作品を100%理解することなどできないし、100%の理解などないと思うのです。自分のわかる部分を大いに楽しめばいいと思って見ました。

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ところで、舞台を見に行く数日前から、ドン・クリック『最期の言葉の村へ 消滅危機言語タヤップを話す人々との30年』を読んでいました。パプアニューギニアの消滅危機言語を調査したフィールドワークのエピソードを綴ったものです。

調査は非常に価値の高い学術研究ですが、この本は学術書ではなく、現地の人々との調査中のあれこれがフランクに書かれていて、それが逆に現地の様子をより鮮やかに映し出しています。

数日この本にはまり、私はかなり詳細に、パプアニューギニアの熱帯雨林の奥地にある小さな村ガプンをイメージしながら読んでいました。

この本の中に「パプアニューギニアのほかの多くの社会と同様、ガプンでも、人が何かをする意図があったのかどうか、その出来事に責任があるかどうかは、あまり重要視されないことが多い。なぜなら、人は常に自分の外にある力によって動かされているという考え方があるからだ。」という記述があります。

どんなことをしても「何かにそうさせられた」と考えるのです。個人の意志や責任という概念がしっかり根づいている西洋や日本の人には、この考えは理解できません。ぎっしりと濃密な熱帯雨林の中で何千年も生きてきた人たち、あらがえない自然への敬服なのか、この考え方は非常に印象深く感じました。

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そして、舞台。

Rintrikという老女は、不思議な存在として描かれています。ある事件が起こり、彼女は村の猟師に銃で撃たれそうになります。そのとき、彼女は、猟師に向かって「何か大きな力がおまえにそうさせているのだ」と言うのです。

それを聞いたとき、私の頭の中で本の記述と、舞台のせりふがカチーンとぶつかり合いました。

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インドネシアとパプアニューギニアとは隣同士、熱帯雨林の国です。宗教で言えば、インドネシアはイスラム教、パプアニューギニア(ガプン)はキリスト教が入っています。

しかし、こうした外来宗教が入るずっと以前から、圧倒的で暴力的とも言える自然の力への畏怖、人間の力ではどうにもならない何かの力への服従という共通した感覚がどちらの国にもあったのではないでしょうか。

本に描かれたガプンの人々の暮らしと、そのどうしようもなさのイメージから、私にはそう思えたのです。

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舞台の感想として、劇団の知人にそれを伝えると、『Rintrik』の原作者ダナルトはジャワのケジャウェン(※ヒンズー、アニミズム、イスラムがミックスした民族宗教)の精神的な教えをルーツに持つ、神秘主義的な作家だと教えられました。それを聞くと、熱帯雨林からの連想はあながち的外れでもなかったのかもしれません。

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もう1つ、芝居の中に印象的なせりふがありました。「神はこの上なく崇高だ」と言う村人に向かって、Rintrikは「神の崇高さをおまえが決めるなど、なんと傲慢な」と言うのです。

そう、その通りです。「この上もなく」という形容はまさに最上、何にも比べられないことを示しているようですが、何にも比べられないと判定する資格が人間にあるのでしょうか。

そもそも「神の崇高さ」は測れるものなのでしょうか。測れないとすれば、崇高さはないに等しい。だとすれば、「神」とはどんな存在なのか。

いや、一神教ならば「神」と言えばすむ。熱帯雨林の圧倒的自然、人間の外にある何か大きな力、神ではない、何かそういった存在。もし、それがあるなら、いったい何と呼んだらいいのでしょう。

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こうして舞台を見終わった後、穴埋めするように作品について考え、勉強していったのですが、そこでもう1つ知ったことがありました。

作家ダナルトは『Rintrik』を書いた時、1960年代にインドネシアで起こった共産党関係者大量虐殺事件(これについては、「インドネシア大虐殺はなぜ起こったのか(倉沢愛子)」に詳しい)と、それを描いたドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を意識していただろう、ということです。

これは衝撃でした。こんな大事件、人間として許されていいはずのない事件。これも「自分の外にある何かの力に動かされてやった」と言えるのでしょうか。そう言って終わらせてしまっていいのでしょうか。

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典型的日本人である私には、一神教の「神」の理解は難しいです。といいつつ、八百万の神はどこかで尊重しているところがあります。そして、神も仏もない卑俗な人間であふれる大都会に暮らしています。私も、その卑俗な人間たちの1人。

何も考えなければ、それで一生を終えられるかもしれません。現代の日本の大都会は、忙しい。でも、立ち止まって、神とは何か、自分が何を信じているのかを考える時間があってもいい。その時間をもらえた経験でした。

思考停止しているのでしょうか

日本語から中国語へ訳されたものをチェックする、という仕事をよくやります。

以前は「私が訳したほうがましじゃないの」と言いたいくらいひどいものもありましたが、最近はそんなことはなくなりました。中国語ネイティブ翻訳者のレベルが上がってきているのかなと思います。

日本語から中国語への翻訳は、日本にいる中国人、日本に旅行に来た中国人がターゲットです。

日本にいる中国人という意味では、東日本大震災で、日本にいる外国人に十分な情報が伝わらなかったことが問題になり、公的機関がやさしい日本語とさまざまな外国語で情報発信する動きが活発になりました。最近ではコロナ関連の情報の翻訳がよく出ます。役所もお金がないとはいえ、防災など命に関わることについてはちゃんと予算を組んで翻訳会社に依頼してくれていて、これはとてもいい傾向だと思っています。

日本に来る旅行客向けという意味では、一時期、急激に需要が増えましたね(翻訳だけじゃなく通訳も)。翻訳会社に頼む予算が出せない自治体・企業・商店・施設などが出す怪しげな張り紙やパンフをかなりみかけました。機械翻訳に頼った場合もあるでしょうが、近くに中国人がいたので頼んだ、ということもあったと思います。日本語が話せる中国人だから翻訳ができるわけではないんですけど、日本はその点についての意識が非常にルーズというか希薄ですよね。日本語から中国語へ翻訳する人は玉石混淆だったのだと思いますし、翻訳会社も一気に需要が増えたので、いちおう翻訳者と名乗る人でも、どれくらい実力があるのか、きちんと見極める余裕がなかったのかもしれない、などと想像します。

最近はチェックに神経をすり減らすひどい翻訳にはまず出会わなくなりましたが、相変わらず多いのはカタカナの間違い。

たとえば「パソコンとデスク」が“电脑和光盘”。パソコンって書いてあったからつい引っ張られたのかもしれませんが、感染症予防対策でこまめに消毒しましょうという趣旨の文なので、ディスクが出てくる可能性は低いし(中国語ネイティブは、あまり文書の内容やメッセージを気にせず、単語to単語、文to文で訳しちゃう傾向もあると思う)、デスクってそんなに難しい単語じゃないですよね……。文章全体はきちんと訳されているし、「なるほど、こう言えばいいのか」と勉強になるところもあるのに、カタカナだけ、いきなりこのレベルになるのは不思議です。

知人の中国人の先生によれば、「カタカナには意味がないから、中国人は覚えられない」と言っていましたが、カタカナだった時点で自動的に思考停止しちゃうのかもしれません。

日本人は、会話に成語が入ったとたんに思考停止しちゃったりしますね。それと似たようなものなんでしょうか。というか、そんなの私だけ?