神より大きな存在について考えさせられた芝居と本

日々のこと

先日、知人に招待されて、Theatre Company shelfの『Rintrik-あるいは射抜かれた心臓』を見ました。

作品について私が持っていた予備知識は、インドネシアの小説を舞台化したものだということくらい。真っさらな状態で見たと言えるでしょう。

感染症に配慮して人数を制限し、換気に注意しながら行われた舞台。無機質な舞台装置、特別な衣装はなく、現代のごく普通の服装は、かえって芝居の意味を純粋に考えさせるものでした。

舞台は緊張感と迫力に満ち、素晴らしかった。難解ではありましたが、結局のところ芸術作品を100%理解することなどできないし、100%の理解などないと思うのです。自分のわかる部分を大いに楽しめばいいと思って見ました。

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ところで、舞台を見に行く数日前から、ドン・クリック『最期の言葉の村へ 消滅危機言語タヤップを話す人々との30年』を読んでいました。パプアニューギニアの消滅危機言語を調査したフィールドワークのエピソードを綴ったものです。

調査は非常に価値の高い学術研究ですが、この本は学術書ではなく、現地の人々との調査中のあれこれがフランクに書かれていて、それが逆に現地の様子をより鮮やかに映し出しています。

数日この本にはまり、私はかなり詳細に、パプアニューギニアの熱帯雨林の奥地にある小さな村ガプンをイメージしながら読んでいました。

この本の中に「パプアニューギニアのほかの多くの社会と同様、ガプンでも、人が何かをする意図があったのかどうか、その出来事に責任があるかどうかは、あまり重要視されないことが多い。なぜなら、人は常に自分の外にある力によって動かされているという考え方があるからだ。」という記述があります。

どんなことをしても「何かにそうさせられた」と考えるのです。個人の意志や責任という概念がしっかり根づいている西洋や日本の人には、この考えは理解できません。ぎっしりと濃密な熱帯雨林の中で何千年も生きてきた人たち、あらがえない自然への敬服なのか、この考え方は非常に印象深く感じました。

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そして、舞台。

Rintrikという老女は、不思議な存在として描かれています。ある事件が起こり、彼女は村の猟師に銃で撃たれそうになります。そのとき、彼女は、猟師に向かって「何か大きな力がおまえにそうさせているのだ」と言うのです。

それを聞いたとき、私の頭の中で本の記述と、舞台のせりふがカチーンとぶつかり合いました。

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インドネシアとパプアニューギニアとは隣同士、熱帯雨林の国です。宗教で言えば、インドネシアはイスラム教、パプアニューギニア(ガプン)はキリスト教が入っています。

しかし、こうした外来宗教が入るずっと以前から、圧倒的で暴力的とも言える自然の力への畏怖、人間の力ではどうにもならない何かの力への服従という共通した感覚がどちらの国にもあったのではないでしょうか。

本に描かれたガプンの人々の暮らしと、そのどうしようもなさのイメージから、私にはそう思えたのです。

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舞台の感想として、劇団の知人にそれを伝えると、『Rintrik』の原作者ダナルトはジャワのケジャウェン(※ヒンズー、アニミズム、イスラムがミックスした民族宗教)の精神的な教えをルーツに持つ、神秘主義的な作家だと教えられました。それを聞くと、熱帯雨林からの連想はあながち的外れでもなかったのかもしれません。

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もう1つ、芝居の中に印象的なせりふがありました。「神はこの上なく崇高だ」と言う村人に向かって、Rintrikは「神の崇高さをおまえが決めるなど、なんと傲慢な」と言うのです。

そう、その通りです。「この上もなく」という形容はまさに最上、何にも比べられないことを示しているようですが、何にも比べられないと判定する資格が人間にあるのでしょうか。

そもそも「神の崇高さ」は測れるものなのでしょうか。測れないとすれば、崇高さはないに等しい。だとすれば、「神」とはどんな存在なのか。

いや、一神教ならば「神」と言えばすむ。熱帯雨林の圧倒的自然、人間の外にある何か大きな力、神ではない、何かそういった存在。もし、それがあるなら、いったい何と呼んだらいいのでしょう。

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こうして舞台を見終わった後、穴埋めするように作品について考え、勉強していったのですが、そこでもう1つ知ったことがありました。

作家ダナルトは『Rintrik』を書いた時、1960年代にインドネシアで起こった共産党関係者大量虐殺事件(これについては、「インドネシア大虐殺はなぜ起こったのか(倉沢愛子)」に詳しい)と、それを描いたドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を意識していただろう、ということです。

これは衝撃でした。こんな大事件、人間として許されていいはずのない事件。これも「自分の外にある何かの力に動かされてやった」と言えるのでしょうか。そう言って終わらせてしまっていいのでしょうか。

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典型的日本人である私には、一神教の「神」の理解は難しいです。といいつつ、八百万の神はどこかで尊重しているところがあります。そして、神も仏もない卑俗な人間であふれる大都会に暮らしています。私も、その卑俗な人間たちの1人。

何も考えなければ、それで一生を終えられるかもしれません。現代の日本の大都会は、忙しい。でも、立ち止まって、神とは何か、自分が何を信じているのかを考える時間があってもいい。その時間をもらえた経験でした。

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