3万円の投資で闘志に火がついた話

エッセイ

「これまでに、鉄道工学の論文を訳したことはありますか」

翻訳エージェントの社長からの電話はこんなふうに始まった。

「え、いえ、ありません」

「そう。中国語から日本語に訳してほしい論文が5本ほどあるんだけど、できますか」

私は、3秒は絶句していたと思う。思いもかけない依頼。なんと答えたらいいんだ?

かろうじて「やったことがないので、なんとも……」と、なんとも中途半端な答えを絞り出した。

「あっそう。まあ、でもやってみてください。資料を送るし、わからないことは聞いてもらっていいし、納期はたっぷりもらうから」

「はぁ」

「じゃ、メールで原稿送りますね。よろしく」と社長は言い、電話は切れた。もしかして、引き受けてしまったのか、私は。

この時、私は「中国語翻訳者」と名乗って1年ほどたっていた。この翻訳エージェントは、知り合いが以前勤めていたという縁で取引が始まったのである。英語とフランス語をメインに、産業技術や工学系の翻訳を官公庁や大手企業から受注している中堅どころの会社であった。

しかし、私はまだ片手くらいの件数しか翻訳の仕事をもらっていなかった。しかも、A4の書類1枚程度のものばかり。あとは訳文のレイアウトを整えるとか、手書きの中国語を入力して電子データにするとか、翻訳周辺の補助的な仕事をやらせてもらうくらいであった。

駆け出しの翻訳者はそんなものである。きちんと仕事をする人だという信用を重ね、少しずつ大きな仕事をもらうようになる。しっかりした会社と取引があるというだけで私は満足しており、「いつか、大きな仕事がもらえるようになりたいなあ」と夢見ていた。

その「いつか」がいきなり来た。しかも、鉄道工学・論文・5本のトリプルプレッシャーである。できるのだろうか。一気に不安が押し寄せ、冷や汗が流れる。

そこへまた電話がかかってきた。

「原稿はメールで送っておきますけど、資料がね、データになってなくて、本なんですよ。論文に関係ありそうなところをコピーしてFAXで送るので、番号を教えてください」

番号を言うと、まもなくFAXが鳴り始めた。そしてまあ、来るわ来るわ、なんと50ページ以上の資料が送られてきた。1枚1枚、吐き出される資料を見ると、日本語であるにもかかわらず、何が書いてあるのかさっぱりわからない。同時にパソコンに送られてきた中国語原稿を見ても、さっぱりわからない。不安を通り越して、恐怖を感じ始める。

断るなら今だ、原稿を見たけど、私には無理そうですと言え、という声が聞こえた。どう言ったら失礼にならないだろう。それとも、もらったとたんに断るより、少し訳そうと努力してから申し出た方が、誠実だろうか。

しかし、それと同時に別の誰かが「やれ」と言い始めた。これまでやった細々した仕事の出来を評価して、大きな仕事をまかせてくれたんだ。断れば、次はないかもしれない。時間はたっぷりくれたんだし、とにかくやってみようじゃないか。

まずは日本語の資料を読み始めた。腹をくくって読んでいくと、おぼろげながら、何の話なのかが見えてきた。

見えてはきたけど、鉄道工学についての知識がないので、おぼろげにわかったところから進まない。もうこれは、基礎知識を入れるところから始めなければダメだ。

翌日、私は神保町へ向かった。大きな書店で鉄道の基礎知識を学ぶ日本語の本を買い、次に中国語書籍を扱う書店に行くと、工業用語の辞書と、英中ではあったが、鉄道工学専門の辞書があった。総額3万を超えたが、迷わず手に入れた。

辞書は翻訳者にとって武器である。原稿の中に出てくる専門用語が辞書で見つかるたびに、「大丈夫、いける」と感じ、1文ずつ日本語訳ができるたびに、「もう断らなくていい」と信じられるようになり、少しずつ闘志が湧いてきた。

もうこっちのものだ。約3週間の格闘を経て論文を訳し上げ、期日どおりに納品した。

パソコンの横にはずっと私と戦ってくれた辞書が積み上がっている。もう明日からは使うことはない。3万も払ったのに、と思ったが、少しも惜しいとは思わなかった。もしかしたら、また鉄道関係の翻訳依頼があるかもしれない。辞書は翻訳者にとって財産なのだ。

ところがその後、翻訳エージェントからは連絡がなくなった。しくじったのだ。不安でいてもたってもいられない。しかし、本当にしくじったのなら苦情の電話があるはずだから、何も言われないのは大丈夫ということだと、自分に言い聞かせて待った。

3か月ほどたった頃、電話があった。新しい仕事の依頼であった。よかった、やっぱりしくじったわけじゃなかった、単に仕事がなかっただけだったと胸をなでおろす私に、社長が言った。

「そういえば、このあいだの鉄道の論文、よくできてました。私は、中国語はわからないけど、この分野の仕事が長いので、日本語を見れば出来の良しあしは判断できます」

鳥肌がたった。

「またお願いしますね」という言葉に、「はい、よろしくお願いします」と心をこめて答えた。本当に「中国語翻訳者」になれた、と思った。

(初出:「天狼院書店 メディアグランプリ」2025年5月8日 3万円の投資で闘志に火がついた話

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